天下を盗むほど偉大な人間に
「盗むなら、やはり天下を盗むほうが男らしゅうござりますな」
竜馬の乗った船の舵取りの七蔵が言った言葉です。石川五右衛門がつかまったとき、「泥棒がなにがわるい、太閤秀吉こそ天下を盗んだ大泥棒ではないか」と言ったのを講釈場で聞いたという話をした後に、冒頭の言葉を言いました。
人間の次元上昇
私も石川五右衛門や秀吉よりだいぶグレードの低い、子供の頃おもちゃを奪ったり、人から平穏を盗んで傷つけてしまった、低い次元の泥棒です。
しかし、豊臣秀吉のように天下を盗めるくらいの天下取りの大泥棒に近づきたい。言い換(か)えると、何かの分野で頑張って多くの人を幸せにするような人になりたい。それで幸福な自分になることが、盗んで傷つけて来た人への償いになる気がします。
罪を償うこととは
世の中には過去が真っ白な人ばかりではないと思います。人を傷つける言動をしてしまったことのある人も多いでしょう。
私のように闇属性が強い人も、せめて秀吉の足元に少しは及ぶくらい、突き抜けた存在になれば、多くの人を幸せにできるかもしれません。そうすれば罪も消える。罪はずっと消えないという人もいるかもしれませんが、私はそうは思いません。
仏教の僧侶、日蓮の言葉にこうあります。「業(ごう)に二あり。一に定業(じょうごう)、二には不定業(ふじょうごう)。定業すら能く能く(よくよく)懺悔(ざんげ)すれば必ず消滅す。何に況んや(いかにいわんや)不定業をや」(全集p985)どんなに重い罪でも全生命をかけた反省をすれば消滅していくとの言葉です。そう思って生きていくしかない。
日本人の大きな罪
日本人自体が第二次世界大戦で他国を侵略したという罪を背負い、生きています。韓国からは未だに恨まれ、お金を罪滅ぼしに払うことを求められています。
しかし、永遠に払い続けなければならないのでしょうか。そうではないはずです。逆に韓国人も日本人の女性に暴力をふるったというニュースを聞きました。罪を犯した人ならば何をされても良いのでしょうか。
韓国人に日本人は何をされても良いのでしょうか。そんなことはないはずです。韓国人も戦争の時、アジアの人を苦しめたことがあるという話も聞きました。
韓国人はそのアジアの人たちに何をされても良いのか。そんなことはない。罪は罪として、被害者や被害者の関係者が幸せになるように努力はすべきでしょうが、無限に償(つぐな)う必要はない。
それが法治国家のあり方ですし、人間として正しい振る舞いでしょう。そうでなければ生きていくことなどできない。何世代にも渡って罪を作らないで生きていくことなど不可能だからです。生きていれば誰かが誰かを傷つけることは避けられません。自分の先祖が誰かをいじめたことは当然、あるでしょう。
過去の罪にどう向き合う
今の時代はパワハラ、セクハラに厳しくなったので罪を犯せば明らかになりやすいですが、昔の人たちも今知られてないだけで多くのパワハラ、セクハラを行っていたはずです。
罪が消えないという考え方は、そういう先祖の罪も背負わなくてはいけないという考え方です。日本人、韓国人、アジアの人、欧米の人、全世界の人、先祖が人を傷つける罪を犯してない人などいないはずです。
もちろん傷つけられた人は辛いです。私も少年の頃、同級生に傷つけられ泣かされたりしました。ジャングルジムの遊具で楽しく遊んでいたら、むかつくとか言われて男女に囲まれてボコボコにされたこともあります。
高校生の頃ずっとちょっかいを出され続けて、反抗したら複数人に囲まれて足で踏まれ殴られまくったこともあります。
当然、今でも気持ちとしては許せません。彼らに会ったら、復讐したいですし、可能ならば一生牢に入って苦しませるか、痛い思いをしながら死んでほしいくらいの深い強い恨みの思いがあります。子供のいじめでさえこれだけ苦しいのです。戦争の時や大人になってからの蹂躙された記憶はどれだけ苦しい思いをしているのでしょうか。
それでも私たちは許さなければ、蹂躙してきた者のこれからの幸福を願わなければ、無限に心の血を流し続けることになります。罪は罪として苦しみ、反省したあとは、前を向いて進んでもらう。そうすることでしか、無限の苦痛を、無限の呪い合う連鎖を止める術はないでしょう。
罪を許すということ
人を呪わば穴二つとの言葉がありますが、許すことは加害者のことを救うこと以上に、被害者側の心を救うことに繋がります。
私も、昔ぶん殴られたから、そいつの住所を探しだして、会って土下座させて謝らせて、この手で殺戮するみたいなことをしたら、何より自分が不幸になると思います。苦しみがより深まるでしょう。
そんなことするよりも、被害者の自分が幸せになることを考えること。加害者がもう人を深く傷つけることのないようになって、優しい人間になって、幸せになることを願った方が、長い目でみたとき得です。
そして、被害者である自分と、加害者である相手。あるいは加害者である自分と被害者である相手が、win-win or no dealの関係を周りで築いて、社会のために幸せに貢献していった方が、より社会のため世界のためになるでしょう。
罪を犯したら何の反応もしないというわけではありません。罪は犯さないように努力しなければならない。やむを得ず罪を犯した場合も更正を目指して困難な努力の道を歩む必要がある。
しかし、罪は必ず命の底から反省すれば消えていくと思うことが、自分と他人を幸せにする道だと思います。
今回の話は以上になります。
私の言うことが絶対ではないですし、反論もあると思います。ただ、もし被害者として、あるいは加害者として、先の見えない絶望の中にいるのなら、少しでも光明(こうみょう)を見いだすきっかけにしていただけたらと思います。
また死刑制度の話や、殺されそうなとき正当防衛でどうするかの話は、別の話なので別のときに話せればと思います。
ではでは
星野敬児でした。
シーユーネクスト
じゃーねー《✨⊂( `・ω・´)つ/✨》シュパーン